二時間だけのバカンス

 その人に目を止める。
 タイトな紫のドレスを身にまとった女性が裸足で歩いていた。夏の昼下がりにしても都会には不釣り合いだった。
 青木は気になってしまう。
「どうしたんですか」
 後ろから近づいてこえをかけた。知らない女性だった。
「ヒールが、折れてしまって」
 ウェーブのかかった長髪を、耳に括り付けながら、靴の持ち主は青木を見つめる。落ち着いた美しさがそこにあった。
「そうですか。お困りでしょう」
 青木は近くの公園のベンチまで連れてきて、自分の革靴を差し出した。
「僕の靴を履いてください。靴屋まで行きましょう」
 裸足の足には少し不格好な靴が添えられる。それから、二人並んで歩き出した。
「あなたが裸足になっていいんですか」
「僕はおとこですからどうにかなります。ほら――」
 通りの軒先に老人が出ていたので頼み込んで下駄を借りて事なきを得る。
「どうにかなった」
 そう云うとくすくすと控えめに笑う。青木もつられて笑った。こんな風に笑うのは久方ぶりで、青木はなんだか懐かしい気さえした。
 歩いた先に万屋があって、ぶら下がっていたサンダルを見つける。
「これでいいですか。不格好ですけど」
「ええ」
 青木は膝をついて靴を履かせてやった。御伽噺のワンシーンのようで、そうしたら二人は姫と王子だ。
「ありがとうございました」
 靴を履き替えてドレスが揺れる。
「いえそれでは気を付けて」
「優しいんですね。青木さんは」
「まあ。――え?」
 綺麗な化粧が意味深に笑って、青木の前から遠ざかっていく。
「さよなら」
 青木の知らない香水の残り香だけが、そこに残っていた。

「おい青木、ぼやっとしてんじゃねえぞ」
「あ、はい」
 青木はあの日あった紫のドレスを思い返していた。名前を知られていた、どこかで会ったことのある人だろうか。青木に女性の友人は殆どいないし、仕事で世話したような人でもない気がする。妻の友人だろうか。そうしたら知っている可能性もなくはない。
 忘れられない。
 水道橋の聞き込みだから、青木には土地勘があった。木場と一緒に何件か歩いて回る。
 あの日寄った公園を遠くから眺める。ただの閑散とした公園だった。
「青木もうお前帰れ」
「木場さん」
「気も漫(そぞ)ろなやつは駄目だ。あとは小金井だから俺だけで終わる。帰ってくそして寝ろ。家族サービスもな」
「でも」
 木場はそう云って青木の肩を強くたたいて行ってしまった。
 考え事をしていたのを見抜かれてしまった。
「……僕もまだまだだな」
 頭を掻きながらしばらく考えて、公園のベンチに座って一服することにした。家にすぐ帰る気にもならない。家には妻と子供がいた。普通のおとこになっていた。
 普通とは何かを考えると、忘れられないかれのことを思い出してしまう。
「――益田君」
 結婚することを告げて、笑って祝ってくれて、ただ変わらない日々を過ごして、ある日突然――かれは消えてしまった。何処に行ったのか誰も知らない。かれの上司は知っていたのかもしれないけれど、教えてくれなかった。
 もう五年も前のことで、自分はもうすぐ四十路になりそうで、そうしたらかれも同じおじさんになっている。元気にしているだろうか。探偵をしているのかもしれない。まさか死んでは――いないだろう。わからない。
 心がそわそわした。かれはきっと怒っている。裏切ったのは自分で、置き去りにしたのは自分だ。わるいことをした。それでもまだ――青木は益田のことが好きだった。
「サガシですか」
 隣から突然声がした。
 あの日の紫のドレス――女性がこちらを見ている。すました顔をしていた、そうして、その表情は――そのセリフは――知っていた。
「――益田、君」
 それを知っているのはかれしかいなかった。かれだと思えばその顔立ちやシルエットが記憶の中からよみがえる。
 紫のドレスは輝くピンヒールを穿いて、にこにこ笑って静かに云う。
「青木さん」
「きみなのか」
「ええ」
 見てくれは女性になって、胸のふくらみさえある。整形した顔には特徴的な八重歯が残っていて、くちから漏れるこえはおんなだった。
「どうして――いや、僕は、――心配していた、益田君、今まで、」
 青木が止めどない思いを浮かばせた頃、益田は静かに指をくちに触れさせて、しずかに、と笑って見せた。
「海、行きません?」
 その目は、あの日の益田龍一だった。

 浜離宮恩賜庭園の緑の中を二人は歩いて、遠くの船着き場を作るクレーンを眺めていた。潮の匂いが流れて、海の水を引き入れた池が波を作る。漣さえないものの、ここは海だった。
「小石川後楽園に似てますね、ここ」
「ああ」
「今日も仕事だったんでしょう、お疲れ様です。がんばりやさんで偉いですね」
 益田は頭に巻いていたスカーフを取って、首に巻きなおした。
「益田君、君は、今日まで……」
「せっかちですねえ」
 困ったように笑った益田の顔は、青木の知っているかれだった。本当にこの人間は益田龍一で、間違いない。けれどたおやかな動作が、女性性をこの体に身に着けていることを教える。
「青木さんが幸せになれっていったから、僕はずっと幸せを探していました」
 あの日の電話の寒さを、青木は思い出していた。
「僕の幸せはね、お嫁さんになること」
 益田が髪を耳に括りながらそう云った。
「だからどうやったら綺麗なお嫁さんになるか考えて、からだを変えて、こうやって」
 夕日を浴びて真っ赤に溶けた表情は、あの日の益田龍一の苦笑で、青木は泣きそうになる。
「おんなでしょう」
 そう云って益田は青木の手を取った。遠くから家族連れが歩いてくる。もう手を離さなくたって良かった。何も知らない誰か達は、益田龍一の正体を知らない。益田はそれを了解していて、わざとらしく青木の指先を弄んだ。骨ばったしなやかな指先は、触れられればおとこのものだとわかる弾力で、美しい人があの日のおとこだということを証明していた。
 青木は何もせずに益田の指先に任せていた。手元ばかりを見る。益田の顔を見られない。化粧は化けると書くが、地味な顔が上手くキャンバスになって、美しいおんなを作っている。違和感はなかった。
「益田君」
「もう帰る時間でしょう」
「え」
「おうちに帰らなきゃ」
 六時になる。早く帰るときはこの時間に帰ることができる。まだ出会ってから二時間もたっていない。まだ話したいことがある。まだ――けれど――でも――。
「足りないくらいが好いんですよ」
 益田はそう云って立ち上がり、スカーフを頭に巻きなおした。サングラスをかける。完全に夜の女になっていた。
「楽しみは、少しずつ」
 一切れの名刺を置いて、益田は歩いていってしまった。青木は新宿の住所を見つめながら、遠ざかるヒールの音を聞いていた。

 王子と姫は結婚して、それから末永く幸せに暮らしましたとさ、と云われても、日常は続く。不幸せだって幾何かは存在する。幸せは続けばそれが当たり前になって、上位の幸福を待ち望む。末永く幸せなんて云うのは、ない。
 平凡な話は、誰も求めない。
 青木は仕事が早く切りあがった日に、新宿に出向いた。じくじくとした感情が渦巻いて、いつも心の中にはかれがいた。暗い場末の界隈を歩いているとき、これは不貞になるのか、一瞬脳裏をよぎる。いけないことだ。いや、ただの昔馴染みに合うだけ――だけれど相手はおんなで――誰かに見られたらそれは――。
「青木さん」
 胸が高鳴る。青木が逡巡している間に名刺の住所についていたらしい。益田はブルーのタイトドレスを着ていて、店に出勤してきたところらしかった。
「益田君」
「来てよかったんですか」
「え――あ――」
 益田が真面目な顔でいうから、青木はたじろいでしまった。ひとしきりそうしてから、益田は笑って青木の肩を叩く。
「冗談ですよ。待ってたんですよ、いつ会えるかなあって。僕ら、ただの昔の友達でしょう。ふふ、こんなの久しぶりですね。昔見たいですね――」
 またそうやって、益田は困った笑顔で青木に話しかける。
「益田君、僕は」
「立ち話も何ですし、行きましょう」
「何処へ」
 益田は店に入ってからすぐ出てきて、車のキーを揺らす。
「ドライヴ」
 益田は青木の腕をすぐ組んで、大通りを二人で歩きだした。隠れることのない日向を二人で歩く。青木は罪悪感をためながら、笑う益田の隣をついていった。

 横浜の港はクレーンや船が空と海に点在していて、沈みかけた夕日を遮っている。益田の手に攫われるがままにホテルのレストランから二人は海を眺めていた。青木はなんでもない話に相槌を打つしかできなくて、胸のわだかまりは落ち着きそうにない。
「水平線の向こうの世界は、ずっと幸せになれる魔法があるんです」
 きらきら光る水平線のように、益田はゆったりと喋っている。こんなかれを青木は知らなかった。
「だから僕は海を見る」
「益田君、君は」
 益田の瞳に光が反射して、まるで御伽噺のお姫様のように幸せそうな顔をする。それが真実なのか、虚実なのか、青木には分らなかった。
「僕のことを――」
 恨んでいるのか。憎んでいるのか。だったら一撃を喰らっても良かった。こうしているところが家庭に知られれば、青木はいけないおとこになる。
 それでもよかった。
 今日まで胸にあったのは嘗て愛したおとこただ一人で、青木はいつだって益田を想っていた。平凡な幸せの中にいて欲しかった。青木には作ることのできない、普通。
 だけれどかれの今は、普通の範囲外にいた。
 笑っている。幸せなのか。だったら――青木の選択は――。
「帰りましょう。もう夜になる」
 益田は立ち上がって、青木の手を引っ張った。店を出て車に乗り込み、湾岸線をどうどうと走って行く。
 もっと一緒にいたかった。
「益田君、」
「欲張りは身を滅ぼすんですよ」
 青木の家から一駅離れたところだった。そこで車を止めて、ドアーを開ける。
「さよなら」
 益田が笑って云う。行ってしまいそうになる車のガラスを叩いて、青木は必至で益田を見つめた。
「次は」
 知っている。その目を知っている。夢に見る視線。かれがいつもそうやって見つめた後、照れくさそうに困った笑顔をすることを知っている。
「いつ会える」
 世界が転覆する。日常が影をひそめる。いけないことをしている。けれど、それは青木の本望だった。

 会う日が増えた。会うのはいつも夕方で、夜になったら別れた。それ以上のことは何もない。ただ一緒に、手を繋いでいた。
 急(せ)いでいた。失われた時間を貪るように、体温は交換されて、二人の匂いは混じり合った。もしかしたらこの香水の移り香で、妻は気が付くかもしれない。
 それでもよかった。
 すべての世界を捨てて、あの日に戻りたかった。そうしたら君を抱きしめて、二人きりの幸せを作る旅をしただろう。水平線を超えて、誰も知らない、たった二人きりの世界へ。――でも、そんな勇気がなかったから、今がある。
 半休の午後、ドライヴは東を目指す。二人は九十九里浜の潮騒を聞いていた。十月の海風は冷たく、ごうごうとシャツとワンピースをはためかせる。
 寄り添って、指先を絡める。朱に染まりつつある水平線を見ていた。益田はハイヒールを脱いで、素足のまま砂浜を歩く。どこまでも続く砂浜に二人しかいなかった。
 海が迫ってくるように感じた。このまま飲み込まれて、海の藻屑になって、水平線の向こうの世界へ届けられれば良かった。死んでしまいたくなる。全てを終わらせて、まっさらなたましいになったら、君を選んで生きられる世界にいきたい。青木はそう願った。
「今日は満月ですよ。十五夜」
 遠くの空にはまだ白い月が浮かび始めていた。夜が始まる。別れる時間が刻々と迫ってきていた。
「あの日も天満月だった」
 益田の指先が強くなって、熱く指先をとかす。青木はその情動に応えるように、強く握り返した。
「青木さんが不幸だったらよかったって、会うまで、思ってた」
 偶然だったんです――いや、運命かな。
 そんな言葉をつぶやく横顔は、きらきらと輝いている。
「そうしたら僕の復讐は完成されたのに――やっぱりあなたは微笑んでいて、手を差し伸べて」
 益田は静かに青木を見つめて、あきらめた顔でつぶやいた。強い風が言葉をさらう。
「でも、僕は――青木さんが笑ってる方が好き、だから」
 顔を歪ませて、笑いながら、かれは泣いた。
「僕の幸せは、青木さんのお嫁さんになること」
 美しい雫が、頬を伝う。白粉(おしろい)の上を涙が伝って、はっきりと痕を残す。
「でももうなれないです。わかっています」
「益田君」
 体を引き寄せて、強く抱いた。こんなに細かったかわからない。
「ますだくん」
「だ、め」
 おんなの腕(かいな)が青木を制して離れようとする。これ以上はいけないと、互いにわかっていた。解っている筈なのに、青木は力を緩めない。
「ただの、昔の友達は、キスなんか、しないんですよ」
「ただの友達じゃない、僕らは」
「終わった、関係でしょう」
 益田が瞳を揺らすから、青木は力を緩めてその顔を見つめた。それが結果だった。自分が選んだ結末だ。
「益田君」
 こえが潤む。まるで全身が海のように波打っているみたいだった。
「僕は、ずっと君が好きだ。君だけだ。君しか、要らない。要らなかったのに」
 月が昇る。夜が染渡る。くらがりの間で潤んだ瞳だけが煌めく。
「あなたも不幸になってなんて、僕は云えないから」
「不幸になってる、僕はもう」
 あの頃に戻れるなら、僕は君の下へ駆けていく。そうして水平線の向こうの世界に連れていこう。普通の幸せなんか要らなかった。自分の平凡な幸福なんて君はいらないことをしらなかった。誰かのための幸せなんて、ただのまやかしだ。それを早く知っていれば、あるいは――。
「君の笑顔が好きだよ、僕も。ずっと忘れない。一生、あの頃の記憶は、失われない」
 くちびると唇が触れて、確かにこれが益田の肉体だということを思い出す。もう引き返せなかった。
 不幸せでもよかった、ただそこに君がいるなら。

2018-11-29
Roman#125