三十二歳の別れ

 煙草から生える灰を窓辺から落としてみる。灰皿がいっぱいになったわけではなかった。雑草が生い茂る下宿の窓辺に、はらはらと白い灰が積もる。きっとこんなところを益田くんに見られたら、真面目な青木さんがそんなことしちゃだめでしょ、なんて詰られる。本当のところ僕は生真面目でもなんでもない人間なのに、周囲の人間に正しい人間だと規定される。好い加減に生きてきた。自分の好い加減が生真面目と云われるから、生きるのは楽だった。もっと好い加減に生きてみたい。そうしたら周囲の人間はなんて云うのだろう。
「青木さん、ただいまです。いや、おかえりかな」
 振り返ったら益田君がドアーを開けて勝手に入ってきていた。
「大家さんから柿貰いましたよ。好い色してますよ」
「そう」
「剥いてあげますね」
 益田君はナイフの場所も知っていて、勝手知ったるなんとやらだ。
「もうこんな季節ですね……」
 さりさりと橙の皮をむいていって、熟れた実が皿に並べられていく。僕はすべて剥き終わるまで手を出さない。益田君は律儀ですね、だなんて云う。
 四畳半の部屋で交わされた契約は今でもしっかり機能している。ちっぽけなこの空間は閉ざされた僕らの世界で、世界には僕ら二人しかいない。
 僕らは互いに愛し合っていて、世界にただ二人きりのおとこたちだった。それで幸せだった。益田君はおんなみたいにまめまめしく掃除なんかしたりして、ここは新婚夫婦の新居になる。ありがとうと云うと、いいええ、だなんて照れた顔をするから可愛い。僕らの間には世間に認められる証なんて何もなかったけれど、ただ二人だけがわかりあう深い約束は存在していた。それだけでよかった。
 煙草を喫(の)むのをやめて、灰皿に吸殻を押し付ける。燃える赤が、一粒だけ弾かれて赤く光っていた。それもやがて色を失って周囲と同化する。益田君に呼ばれるまで、その赤が忘れられないでいた。

 届いた郵便をしまい込んで煙草をふかしていたた。いつも通りに益田君が来た。暮れなずむ空を閉める。
「好いお酒貰ったんです。のみましょ」
 瓶の中の清酒がちゃぷりと鳴って、益田くんの笑顔を揺らした。
「酒の肴が無いな」
「あたりめ炙りましょう。持ってきました」
「用意周到だね」
 先週出した火鉢を覚えていて、益田君は準備が好い。炭に火を入れてひっそりとした赤が火鉢に馴染んでいく。
 コップを空けたら酒を注いで、するめをしゃぶって、なんでもない事を喋っていた。益田くんがうふうふ笑うから、つられて笑ってしまいそうになる。
「お酒飲むと寒くてもあったかくなっていいですね」
「あついね」
「青木さん真っ赤ですよお」
「うん」
 益田君を引っ張って、そのくちびるにそっと触れる。触れて、濡らして、なぞって、粘膜とねんまくがとろける。
「もっとあったかくなろう」
 体制が崩れて、僕は益田に覆いかぶさった。ふわふわして楽しい。君が笑うからもっと楽しい。ずっとこうしていたい。君の匂いを嗅いで、温もりを感じて、心音を聞く。愛おしかった。
「あおきさん」
 キスをしながら服の下に手を入れて、胸の突起を触りながらズボンのベルトをはずした。蒸れている。ずり下げると性器が躍り出てきて、可愛く手に納まる。
「ふあ」
「かわいい」
「なにがですかあ」
「益田君が」
 ワセリンを益田君の穴に塗り込めて、とろかしていく。中は生暖かくてぬるぬるしていた。
「益田君のね、気持ちよさそうな顔が、かわいいんだ」
「あ、あっあぐ」
 予告もなしに挿入して、益田君は僕の二の腕に強く縋った。ゆっくり抽迭して、益田君のいいところをわざとごりごり擦(こす)ってみる。
「あ、だめ、そこ、あっ」
「好きでしょ、ここ」
「あおきさん、あおきさ、あっ」
 先走りが益田君の性器から垂れて、腹を濡らす。前立腺が肥大している気がする。もうすぐ痙攣して、益田君は僕を締め付ける。
「あ、あっ! あおきさん、あおきさ、ん」
「いいよ。僕も気持ちいいよ」
「あ、あ、だ、だめ、あっ――!」
 けものじみた咆哮を上げて、益田君は絶頂した。青木の肉を絞り上げて、精液を飲み干すようだ。絶頂するとき射精すると、妊娠するという。そうなら、きっと今、益田君は受精して、身籠ったにちがいない。だけれど卵なんてどこにもなくて、益田君が持っているのはくちまでつづく洞(うろ)だった。僕の蛋白は益田君に吸収されるのか知ら。僕が混じっていくのなら、益田君が生きているだけで、僕らは一つだった。孤独は僕が背負っていく。益田君が幸せになれるなら、それでよかった。
「益田君、子供好き?」
 火鉢の傍に寝転んで、服をぞんざいに身に着けて、僕らはまどろんでいた。
「子供? 嫌いじゃないですよ」
「きっと君の子は、良く笑って、剽軽で、よく気が利く子だろうな」
「はあ。青木さんの子は、まあ、コケシでしょうな」
「そうだね」
「可愛いでしょうね」
 火鉢の炭がぱちりとはじけて、赤が一粒だけ零れた。すぐに黒くなる。なんだか眠くなってきた。
 益田君は長い睫毛を伏せながら小さく笑って、首を掻いた。
「おとこがおとこに掘られると、おんなみたいになるんですって。ホルモンがどうの、って」
 顔にかかる髪を耳に括り付けて、益田君は僕を見つめる。
「ほら僕、なんだか肌がつやつやで、髭も伸びないし、代わりに髪が伸びて、丸くなってる」
 青木さん、と嬉しそうに益田君は囁いた。
「おんなになるんですよ」
 僕は何も云えなくて、きらきら輝く益田君の目を見ながら、その射干玉の黒を撫でてやる。胸が詰まった。まどろみが意識を覆って、ゆっくり撫でる益田君の頭が温かくて、僕は泣きそうになってしまった。

「おかえりなさい」
 合鍵を渡してあるから益田君は勝手に部屋に入る。帰ってきたら箒をもって窓辺に佇んでいた。土曜の昼。家庭を守るおんなのかたちをして。
「僕がいないときくらいはそんなことしなくたっていいんだよ」
「いいんです、僕は好きで……」
 長くなった髪を結わえたポニーテールが揺れる。振り向いた顔にぎょっとした。顔は白くて唇は真っ赤だ。下手な役者の化粧みたいだった。
「準備が好いでしょ」
 益田君は困ったような笑顔をして、一瞬悲しい顔をした。それを見てしまって、僕はしくじったと思う。
「だって僕ら、」
 益田君が望んでいるのは、きっと僕にはかなえられない光景。人目を憚(はばか)らないで手を繋いで、並んで小唄を歌う。それはこの世間で、おとことおんなに許された愛情。僕らはおとことおとこで、益田君は決しておんなになれなかった。
「口紅、付けたらおんなにみえますか」
 そんなこえで云わないで欲しい。僕は何も云えずに相対するしかなかった。
「ほら、髪も伸びた。ね、後ろ姿、おんなみたいでしょう」
「そんな」
 いつもふざけているのに、益田君の言葉はこのときばかりは真っすぐで、痛いくらいだった。道化師のような顔で云うのだから、ちぐはぐだ。
「僕は青木さんの為に」
「僕の為なんて云うのやめろよ」
 遮ってしまった言葉は思った以上に冷たくて、自分でも驚く。 
「君は望んでなんかいないんだろ。女装趣味なんて」
「だって、ぼく、青木さんと、ずっと一緒にいたい」
 益田君の弱ったこえと、弱った涙が一緒に出て、二人を惨めにした。
「ずっとなんて、無理なんだよ」
 益田君には女装趣味なんかなくて、化粧したっておとこにしか見えなかった。おんなになりたいわけじゃないのに、そんなことをする。
 白粉(おしろい)の上を涙が伝って、はっきりと痕を残す。
「ぼく、青木さんしか、知らない。青木さんしか、要らない、だから」
 僕らに許された時間はもう僅かばかりしかない。季節は巡っていって、僕らは年を重ねていく。その先を考えなければいけなかった。未来。将来。僕らの関係。世間。体裁。三十二歳。
 見合いの写真が卓袱台(ちゃぶだい)の上でひっそりとしていた。
「益田君、もう」
 これは誰の所為でもなかった。
 いつかは迎える終焉だった。

 上野から離れて、北へ進む列車に揺られる。風景はだんだん深緑を増やしていって、人工物を溶かしていった。寒々しい枝が飛んでいく。
 幸福でも不幸でもなかった。何も感じない。益田君と一緒にいれば、何かしら心が動いていた。それに離れた今気づく。
 はやく見切りを付けなければいけない。
 心地よい居場所にいつまでもいるなんて惰性でしかない。それは今だけだ。
 良い年ごろ。
 僕の所為で益田くんの平凡で幸福な生活を壊してはいけないと思った。きっとかれに似た笑顔が可愛い伴侶を見つけて、小さい家で笑いあうのだろう。僕にはできない事だ。
 中野の家で会って、心を許して、いい加減さを詰って、それでも離れずにいた。
 若かった。
 夢中になって触れて、ありふれた普通を壊して、それで今益田君は傷ついて、僕ら疲れ果てている。
 泣きたくなった。
 ガタリガタリと進む列車の、歪(ひず)みの音が思考を抉る。
 好きだから、別れなくてはいけない。
 そんな三文芝居みたいなことになるなんて思ってもみなかった。
 好きだ。
 好きだった。
 だから、取り返しがつかなくなる前に、僕はやらなくてはいけない。
 僕から始まらした関係だから、僕が畳まなくてはいけない。
 窓の隙間から、冷たい風が吹き抜けていく。北へ。気温が一度下がったように感じられた。身震いをして窓を閉め切る。惰性を断ち切るように。

「益田君いますか」
 東北の旅館の片隅から、探偵社のベルを鳴らす。寅吉さんが出て、気のいい返事をしてかれを呼んだ。
「益田君を、」
 耳鳴りが自棄にする。世界が揺れているみたいだった。もし見えない世界の規律が実体化しているのなら、きっといま、それは組み替えられている。
「……聴こえる?」
 消え入るようなこえで、益田君は返事をした。静かだった。それにいたたまれなくなったかのように、どうしたんですか電話なんて珍しいですね直接ここにきてくれりゃいいのにそしたらお茶だって出せるしああいま塩饅頭があるんですよ青木さん好きでしょうに、なんて止めどなく喋って見せる。
「今、実家なんだ。――見合いをしてきた」
 へえ、と気の抜けたこえを益田君は出して、それっきり何も聞こえない。胸が詰まった。今、どんな顔をしているだろう。いつもの誤魔化すような笑顔ではないのだろう。静かな顔になって、もしかしたら涙ぐんでいるのかもしれない。そんなこと思うなんて思い上がりもいいところだ。顔が、見たくなった。
「僕は君のことが大切なんだ。だから君の将来のことも考えるよ。僕と居ては駄目だ。君は一人息子だろう。幸せにならなくちゃだめなんだ、そう、世間の幸せに。僕は――君を――幸せにしてあげられない」
 静寂に向かって喋り続けた。あまり喋るのは得意ではない。けれど伝えることは云った。
 幸せに、出来ないことは、解っている。
「……聴こえる?」
 受話器の向こうから吐息が聞こえて、それが自棄に濡れていた。
「僕の為なんて云うのやめてください」
 痛かった。優しい君が、精一杯怒っている。
「青木さんは自分勝手です。生真面目でもなんでもない、酷い、人」
「――ああ」
 弾かれた赤は、色を失って周囲に同化するしかない。それはわかっていた。熱を奪われたら、ありふれた黒になるしかない。
「さよなら」
 ジリ、と電子音が途切れて、繋がりが断たれたことを知らせる。
 受話器を置いて、壁伝いに座り込む。
 これでよかった。こうするしかなかった。
「僕ら、離れ離れだ」
 困ったように笑う君の、その切なさが胸を締め付ける。窓の外にはあの日と同じ天満月が昇っていた。

2018-11-15
Roman#124
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東京事変『三十二歳の別れ