空が鳴っている(Reverberation)

 澄んだ空にどこまでも星がまたたいていて、宇宙は綺麗だった。鳴っている。ぐわんぐわんと孤独の音を鳴らしている。榎木津は決してひとりではなかった、隣には益田がいた。サイレンを鳴らして、奪ったパトカーを飛ばす。山に囲まれた高速は遠くとおく伸びていて、終わりを見えなくしている。
「う」
「マスヤマ」
「は、い」
 ラヂオがノイズを発して、まるで終焉の前のように二人を睨んでいた。血の匂いを充満させて、二人だけの空間は移動している。
「星が綺麗だ」
 何かもっということがあったろうとおもう。けれどフロントガラスの向こうには、満天に星が飛び散っていて、どこまでも美しい。神保町では見られない空だと思う。田舎には生活の光が少ないから、空の闇が際立つ。
「きれいですね」
 苦しそうな息を止めて、益田は笑って見せた。
「すぐ着くから」
 アクセルを強く踏む。なのに辺りの景色はスローモーションのように変わらない。テールランプが尾を引いて、まるで映画の演出のように感じられた。
「榎木津さん、」
 荒い息を止めて、益田は榎木津に触れて見せた。腰を押えていた指先には、べっとりと血がついている。
「ぼく、いま、幸せです」
「マスヤマ」
 そんなこと普段言わなかった。表情は見えない、けれどきっといつものように困った笑顔をしているのだろうと思う。
「榎木津さんに、運んでもらえて……そばに、あなたがいるから……ぼくは」
 いま云わなければいけないと思ったのだろうか。ゆっくりと言葉を選んで、珍しく丁寧に益田は話した。
「ああ、世界一幸せだよ、僕ら」
 意識を途切れさせてはいけないと思う。救急まで、瀕死のこの子を運ばなければならない。
「そんなこと、云うんですね、あなたが」
「いうよ。僕は真実しか」
「ふ」
 益田は静かになって、必死になって呼吸をしていた。
「マスヤマ」
 榎木津はその時、広大な宇宙が耳元で囁くような感覚に襲われた。
「益田」
 もしこの宇宙の先に、全能の神が本当にいたら、榎木津は誰に笑われたって、頭(こうべ)を垂れて願うだろう。それほど、榎木津の中には益田が大きく育っていた。榎木津は返事をしない益田の左手を握って、強く、つよく願った。まだそこは暖かくて、いつものように握り返すまで、幾分もないと思える。
「――いいこ」
 トンネルの中で、オレンジの照明が規則正しく飛んでいく。まるで宇宙の中のタイムワープみたいだった。

 拘束がどこまでも続いている。永遠に終わらないんじゃないかと益田は思った。体がだんだん冷えていく。血が失われていくからだった。鼓動が自棄にうるさくて、小さいころ転んで擦りむいた膝小僧を思い出した。傷ついた部位に心臓があるみたいに、どくんどくんと脈拍が聞こえる。
 榎木津が隣にいた。
 自分の為に運転をしてくれている。益田はそれが嬉しくて、申し訳なくて、愛おしかった。いまなら触れてもいいか知ら。益田は追い詰められているはずなのに、まどろむ午後のようなことを考えている。指先を伸ばして、触れた時に、血液で濡れていたことを知る。真っ白な彼に、悪いことをしたと思った。
「ぼく、いま、幸せです」
 かれを見たら、しらない瞳でこちらを見ていた。まるで生気のない枯れた瞳。そんなかれをしらなくて、益田は少しだけ怖くなって、同時に嬉しくなる。かれについて一つでも多く知ることは、信者にとって僥倖だ。
 きっといま、かれの中に自分がいっぱい揺蕩(たゆた)っている。かれをいま、独占している、そうに違いない。それは真実で、違えようのない事実だった。
「ああ、世界一幸せだよ、僕ら」
 そんなことを云うから、驚いてしまう。
 僕らは幸せになるために寄り添っていた。幸せのかたちがわからないから、喧嘩したり、冷たい言葉をぶつけたり、仲直りしたりした。疾走していた。好きだということを許せるようになった。そうして、僕らは片思いをやめて両想いになった。つい最近のこと。事件に巻き込まれる、ほんのちょっと前のこと。
 かれのなかに幸せがあったなら、それでよかった。幸せに自分が寄与している事実が、益田にとって祝福だ。
「ふ」
 宇宙がすぐそばで笑っている。
 益田は何か云おうとして、くちを開いた。だけれど言葉を選べない。自棄に冷たい宇宙だ。この宇宙を泳ぎ切れば、きっと対岸にかれがいる。そうしていつものように、いい子と頭を撫でてくれる。早くいかなくては。タイムワープを通って、遥かな対岸へ。
 ちゃんと世界一幸せだと、云わなければいけないから。

2018-10-23
Roman#120
[pixiv]

東京事変『空が鳴っている