海底に巣くう男(Regardez Moi)

R18

好きな人から好かれることが受け入れられなくなることを蛙化現象というらしい。グリム童話に載っている蛙の王子様の逆パターンということで命名されている。原因はいくつかあるが、自分を肯定できない自己肯定感の低さを要因にあげられる。
 益田は榎木津を好きだのに、榎木津は益田を好きになってはいけないらしい。酷い。好き好き云っても駄目ですしか云わないから、「体が好き」ということにした。引かれている。嘘ではないから昨日も云って、そのまま抱いて、朝になった。蛙が池を泳いでいく夢がまだ脳裏に浮かんでいて、げこげこないてそこいらじゅうを跳び回る。
 カーテーンから陽が射して、日曜の午前を輝かしている。昨日は飲み過ぎた。
 顔を洗って戻ってきても益田は寝ていて、なるほど飲ませすぎたのだと思う。頭は痛くないがまだふわふわしている気がしてけだるい中に好奇心が疼く。キスしよう。おきるか知ら。また真っ赤な顔が泣きそうになる、きっと。それが可愛いからいけない。
 ベッドの隅に蛙がいた。
 昨日部屋をひっくり返していたら出てきたお香立てだ。都合のいいことに棒状のお香が入った箱も並んでいる。清涼感のある香りで、何のお香かはわからない。ベッドサイドに蛙を立てて、マッチに火を点けて燃やした。部屋に煙が流れる。
 きっとこれで気持ちよく起きられるだろう、とベッドで寝がえりを打った益田に、榎木津は覆いかぶさった。

 体の末端が膨張するような感覚が、ずっと続いていた。宇宙に溺れそう。海の中にいる。ピンクのヒトデが空を飛んで、体を浮き上がらせる。どうやらあれは地球外生命体で、これからこの体を回収して見聞するらしい。痛いことはしないさ、と素敵な無脊椎動物に囁かれる。それはなんだかさわやかな匂いがして、海の生き物ではないみたいだ。宇宙の生き物だからか知ら。安心できる雰囲気(オーラ)。それでも未確認飛行物体に吸い上げられるのは怖い。誰かに助けてほしかった。海水がしょっぱかった。ぴちぴちと濡らすのは雨か知ら。
「ふあ……」
 かれの匂い。最近覚えた好きな香り。それがくちいっぱいに広がって、ぬめぬめした無脊椎動物が舌を巻き上げる。それはいけない。ぼんやりと開けた視界にかれの美しい睫毛が揺れていて、そこも栗毛なんだなあ、と感心してしまう。
 そうじゃない。
「ふあ、あ、」
「ん」
 榎木津の体を突っぱねて、益田は濡れたくちびるを手の甲で拭う。どうして起き抜けにかれがいるのか、ここはどこだか、益田は混乱していた。
「え、榎木津さん……」
「おはよウ」
 べろりと唇を舐めて、榎木津は益田の頬をかるくたたいて見せた。
 ここはかれの寝室で、昨日酒をしこたまのんで、酔って、それから……。
 何も身に着けていない。
「ハーブを焚いた。さわやかな朝」
 起き抜けなのに刺激的な香りに包まれてくらくらする。体にかかったシーツが落ちそうで、それを拾い上げて体を隠す。全て隠したい。隠れていたかった。
「風呂に入ろう。おいで」
 手を引かれて、最新式の風呂場まで歩いていく。和寅さんはいない、今日は本家に帰っている。そういえば榎木津さんの面倒を頼まれていた。面倒と云っても一緒にいるだけだけれど。
 休日に一緒にいるだけなんて恋人みたいだ。
 そんなことを考えて一人で赤くなってしまった。
「僕のこと考えてただろ」
「え」
 水を被ったかれは美しい雫を垂らして、綺麗なかおで笑っていた。
「そんなこと、ないです」
「嘘が下手」
 体を洗われて綺麗になる。されるがままになっていて、まるで子供みたいだ。榎木津から見れば益田なんてまだ子供みたいなものなのだろう。小さくなってしまう。
 ふかふかのタオルでまたあやすように体を拭かれて、湯上りの子供は逃げるように寝室へ戻っていった。服を身に着ける。榎木津は開襟(かいきん)のシャツにジーンズをはいて、アメリカ人みたいだった。
「どこか行こうか」
 榎木津は伸びをして、益田の方を振り返る。この部屋以外で二人きりになる。それはなんだか恥ずかしかった。人の目に晒されて、どうみられるのか気になってしかたがない。
「おなか空いてる?」
 ご飯を食べに行くというのか。ここで返事してしまえば食事デートになってしまう。二人で並んで食べる。以前は気にならなかったのに、あの日以来酷く気にしてしまう。
「す、空いてないです」
 本当は空いていた。安易な嘘。昼になって出前でもとれば探偵社から出なくて済む。そういう算段だった。
「じゃあ銀ブラでもしよう。そのうち空くだろう」
「銀ブラ」
「デート」
 デートになってしまった。直接的な定義をされて、益田は狼狽してしまう。
 嘘を吐けない。
 嘘を操られる。
 榎木津にとって益田はやっぱり子供だ。
「お前は嘘が下手だなあ」
「う」
「お前を見てたらわかる」
 顎を掴まれて、水晶体を検分するようにじつと見つめられた。鳶色の瞳が体の中を解剖していくみたいで、小さな益田は耐えられない。
「僕を見ろ」
 敏腕のジゴロみたいな笑い方をしている。
 ずるくて、ひどい。
 こっちをみないで、ほしい。

 益田の気持ちははっきりわかっている。益田だって榎木津の気持ちを知っている。でもそれを受け取らないだけだ。卑屈がそうさせるのなら、体の内側から変えていくしかない。変化を待つことで愛を注げるのなら、幾らでも待つ。待つのは苦手だけど、この子の為なら。榎木津はそう思う。
「からい」
 益田は出されたコカコラを初めて一口飲んで、注文してくれた榎木津を見ながら渋い顔をした。
「二口目は美味しいよ」
「高いものはくちに合いません」
「ラムネみたいなものじゃないか」
「そうですかあ……」
 益田はおずおずとまたストローをくわえて、進駐軍の飲み物を吸い上げる。否したくちで、長いことコカコラを味わっていた。気に入ったのか知ら。榎木津は自分も飲みながら益田を見つめる。窓の外に行きかう人や、喫茶店の客全員が微笑んでいるように感じた。
 炭酸がぱちりぱちりとはじけて、日曜の午後を嬉しくさせている。
 その濡れたくちびるを、今朝、愛した。
 初めての味を飲まして、かれのなかの感性を震わして、やがてそれがかれの血肉になって笑う。この子を変えていくことが、体の奥で喜びになる。処女を染めていく。それがいいことかわるいことかわからない。傲慢だと思う、けれどやめられない。
「やっぱりおいしいです」
 益田のくちから離れたストローが円を書いて揺れていた。困ったような顔で笑って、手の甲でくちびるを拭って見せる。
 輝いている。
 かれに光が注がれているみたいだった。
 ぱちりぱちりとはじける炭酸だけが、星のように流れている。
「おいしいだろ」
「ええ」
 目を合わせて、考えるように逸らして、おずおずとまた目を合わせる。益田は何か云うときいつもそうした。
「僕、榎木津さんに変えられていくんですね」
 そのセリフが胸を射抜いて、どうにもさせなくする。まるでアリスがウサギの穴に落ちていくような驚愕。考えていたことを見抜かれる。いつも自分がしていることを、この子にされるなんて思ってもみない。まいってしまう。
「どうしたんですか?」
 益田が困った顔でそういうから、自分の顔が固まっていることに気づいてしまう。
「お前が好きだと思っていた」
「え、榎木津さん」
 益田は慌てふためいてあたりを気にしながら小さくなった。
「だ、だめです」
 目を合わせないで、益田暗くはきらきら弾けるコカコラの上に顔をかぶせる。世界はこんなにうららかなのに、二人の間には宇宙の片隅に取り残されたような孤独が渦巻いていた。榎木津はそんな暗闇なんか気にしていないのに、この子はその深みにとらわれている。
「だめじゃないところへ行こうか」
 榎木津は益田の手を引いて、立ち上がって店を出る。離れようとする手を離さない。疾走する。日比谷の帝国ホテルに入って、漸くつながりを開放し、その手でサインする。ボイに連れられてホテルの一室に二人は流れ込んだ。
「榎木津さん……」
 目を潤ませて、顔を赤くして、かれは立ちすくんでいた。
「あの、」
 呆然とするかれを抱きしめる。
 これがしたかった。
 心音を感じる。聞こえる筈がないのに、自棄にはっきり聞こえる気がして、そのリズムは子供が可愛く歩くようだった。
「えの……」
「好き」
 おとこの体温が身じろぎして、落ち着かない心を描いている。やわい髪の匂い。手が彷徨って、どこにも縋らない。
「お前を好きなことを、許して」
「そんな」
 そんなことを云わないで、ください、と益田は小さくつぶやいた。榎木津は弱い言葉を云ってはいけないし、相手に許諾を訪ねないと益田は信じている。益田の中の理想の榎木津を壊してしまいたい、けれどそんなことをしたら泣いてしまうのだろう。
「ぼ、僕なんかを、好きになっちゃ、だめです」
 弱弱しいこえで益田は云う。
「マスヤマ」
 榎木津は益田の肩を掴んで、揺れる瞳を覗き込んだ。云わなければいけない。この子の中から変えていかなければいけない。
「僕はお前を知っている。頼まれごとは引き受けて熟すし、サガシもまあちゃんとやる。鍵盤楽器が弾けるし、手先が器用だ。人にやさしくあるところ、野良猫の心配をするところ。巫山戯て振舞っているが、正しくあろうと生きている。僕はお前の全ては知らないが、知っている部分は好きだ。だからお前が好き。お前は自分を肯定しなさい」
「う」
 益田は榎木津の云うことがわからないとでもいうように顔を白黒させた。
「お前は自分のいいところがわかってない。だから僕が教えてあげる」
 いくらでもカエルにしていい。失望されても良かった。少しでも益田の中で変化があったなら、いつかこの愛情を受け取る両手が伸びる。
「そんなの」
「僕は嘘を吐かない」
 潤んだ瞳から涙が一粒落ちて、益田は顔を拭った。
「……そうでした。あなたは、嘘を吐かない」
 少しだけ笑って、耳まで赤くした益田は俯いて息を吐く。
「僕、榎木津さんといると、いつも、泣いてますね」
「泣かすのうまいだろう」
「褒めてないです」
「ふふ」
 榎木津はしゃがんで、下から益田を見上げた。
「僕を見るんだ」
 つぶらな瞳は濡れていて、光を集めてちいさくきらきらと輝く。益田は何も云わずに榎木津を見つめていた。
「お前の大切なものになりたい」
「榎木津さんは、僕の大切な人ですけど」
「そうじゃなくて」
 二人の間にはまだ恋人と云うラベルは張られていなくて、体だけが先にあった。もっと益田の私情的な感情が欲しかった。恐る恐る触られるのではなくて、もっと、大胆に。
「もっとこう、わがままに独占して」
 もどかしくなって、俯くかれのくちびるに、渦巻く熱を押し付ける。
「僕だけを見て」
 それは榎木津の願いだった。
 目と目が合って、きっとぶつかった先から火花が散る。きらきらと二人を輝かして、震える恋情が燃えていく。熱い吐息を食べるように、榎木津はまたくちびるを塞いだ。

2018-10-04
Roman#114
[pixiv]
東京事変『海底に巣食う男