電気のない都市(City Without Electricity)

雪が降っていた。満月が白を照らして美しい。音が吸い込まれていく。静かだった。静かなのは都市(まち)のどの窓にも明かりがついていないからで、それは雪の日に起きた大規模な停電の所為らしい。都市が眠っている。星空が妙に美しいのは、地上の光が失われたからだ。そんなことをぼんやり考えながら窓の外を見つめていた。医者が帰っていって、入れ替わりに益田が入ってくる。
「駄目ですね。ブレーカーいじってもつかない。いつまで暗いのかなあ」
 ランプをベッドサイドに置いて、益田はわざとらしくため息をつきながら椅子に座った。
「ストーブがあってよかった。いいですね、赤い光」
「ああ」
「大丈夫ですか」
 咳をしたら大げさに顔を覗かれて、くらいかおの瞳が光っているのが見えた。表情が見えない。きっとしょぼくれた顔をしているのだろう。いつもの、困ったような笑顔が見たかった。
「うつるぞ」
「だって一人にしておけませんよ。和寅さんもいませんし」
「じゃあ離れていろ」
「離れません。僕はここが好いんです」
 云う様になった。少しの我儘をこうやって見せてくれるようになったのは、時間をかけて溶かしていったから。ちゃんとそこにかれがいて、自分の心をしゃべっている。
 ランプの炎が揺れて、影を大きく揺らしている。
「雪が降ってましたね。箱根で……」
 出会ったときのことを益田は時折喋った。遠い昔の出来事のように喋る。実際は二年もたっていないのに、懐かしい声色でしゃべるから、語り継がれる昔話のように感じてしまう。感覚が膨張する。熱がこもった体が、雪山の風景を思い返す。ほとんど覚えていなかった。益田と云うおとこが刑事として生きていた時、意識したことはきっとない。何も知らなかった。それを少しずつ知っていく。互いに互いを埋め合わせて、ここまで歩いてきた。
「水のみますか」
「いや」
 始まったばかりの夜が、いよいよ深くなる。
 これ以上この体が悪くならないことをなんとなくわかっていた。けれどかれが傍にいることが心地よくて、深い夜になるのに帰さないでいる。雪もいけない。帰れなくなる。頭では理解できるのに、熱で犯された体が判断を鈍らせる。傍にかれがいることが、こんなにも体に染みていくなんて思ってもみなかった。自分は老いている。だれかを求めることなんてなかったのに。
 自分はこの子が好きで、どうしても手放したくはない、その事実を、病床の熱い体の中で反芻する。静かな闇の中で、二人息をしていることが、酷く愛おしいと、ぼんやり思った。

「風邪になるとよく母親から聞かされました。ただの風邪でも侮ってはいけない、何かの拍子で死んでしまうかもしれないからって。実際、知人の奥さんは風邪が悪化して亡くなった。その事実があるから母はあんなに切羽詰まって云っていたんですね。こころして看病しないといけない。人はいつ何時ころっと死んでしまうかもしれない、今際に出くわせないかもしれないって」
 益田は闇を押しやるように、言葉を紡いでいた。横たわる榎木津を見つめながらくちを動かす。
「僕が死ぬかもしれないとお前、思っているの」
 榎木津が静かに云うと、益田の顔には空白が張り付いた。そうしてにやにやと笑って見せる。
「何言ってるんですか。榎木津さんは、死にませんよ。ただ風邪にまつわる話をしただけで……」
 益田は首を触って照れたように失笑しながらくちをひらいた。
「だってかみさまなんでしょう。かみさまは、しなない」
 榎木津は咳をして、つられたように笑って見せた。
「そうだな」
 益田はぼんやりと照らされる美しい顔を見つめた。鼻梁がはっきりして、形のいいくちびるは閉じていて、大きな瞳はうっすら濡れている。レンブラントの絵画のようで、この美しさはいま自分だけが享受していることを、益田は密かに誇りに思った。
 崇拝に似た思慕が、溢れて止まらない。
「僕は、榎木津さんがいない世界を知らないんですよ。だって、産まれた時から、今まで、あなたは僕の世界のどこかにいた」
 世界はきっとかれに出会うためにあった。そうおもう。益田の世界はいま、榎木津を中心に据えている。
 それはいつか、失われてしまうのだろうか。その今際に、自分は立ち会えるのだろうか。
「榎木津さんは……」
 益田が俯いて云いかけたことばを、拾い上げるように榎木津は益田の手に触れた。益田の指先は冷たかった。熱い病人の手が凍えた手に触れて、溶け合っていく。
「榎木津さんを、失うのが、こわい」
 若いこえが部屋に響く。
 それが益田の本音だった。
 もうよくならないんじゃないか、そんな熱をしている、そう思う。
 触れた薬指が熱い。
「大丈夫だ。僕は死なないんだろ」
 榎木津は指を絡めて、その熱を益田に注ぐ。すらりと長い指先は、骨ばっていて確かにおとこの手をしていた。肌がしっとりと濡れていく。それが夜露に濡れる草木のようで、都市(まち)に横たわる闇全てが、深い森になったようだった。
 確かに二人は生きていた。
 この闇は二人しか知らなかった。
 二人だけの、秘密。
「僕がおんなだったら」
 枯れたこえで小さくつぶやく。きっと喪服のことを考えている。榎木津と益田の間にはなんの契約もなかった。上司と部下で、師匠と弟子で、神と下僕。おとことおとこ。参列は特別なところに立てないし、骨になったら一緒になれない。そういう間柄だった。
 愛は形を成さない。それを二人はよく知っていた。
「云わなくてもいい」
 繋がった手のひらの、温度がぬるくなる。榎木津の熱を、益田の手のひらは奪っていって中和していく。繋がったところから生命が混ざり合っていくようだった。そうして一つになれたら、どんなにかいいだろう。
「僕はずっとあなたと一緒にいたいです」
「分かってるさ」
 きっと同じことを考えていた。
「だから、治るまでここにいます」
 暗い寝室は世界の果てに違いなかった。もうずいぶん何もかもが置き去りにされている。揺れるランプが影を大きくして、まるで怪物のように映していた。世界にはきっと二人はばけもので、闇に生きるべきだと云われるのだろう。世間から与えられる普通のおとことしての生き方とか、正しい恋愛の方法だとか、そういうものをすべて人生の前途から外している。益田にはもう榎木津しかなかった。漸く許され、許すことができるようになった。愛されることを受け入れることができた。二人で生きる先に何があるかわからない、けれど今まで知ってきた人生の最後にはならない。それを覚悟して、今を生きるしかないことを、益田はこころの奥底で確認する。
「大丈夫だから、お前も眠りなさい」
 柔らかいこえで榎木津が云った。
 かれが溶けていく。眠りの緩やかな流れに沈んでいくようだった。まるでそれが今生の別れのような気がして、喉の奥が酷く掠れる。
「だいじょうぶ」
「榎木津さん」
 ひそやかに二人は生きていた。透明になって、こえを押し殺して。二人の間にある熱量は、誰にも見えない。二人だけしか、この世に見えるものはない。
 窓の外に光が灯る。都市(まち)が蘇って、息をする。益田はそれを眺めながら、ゆっくりと息を吐いた。

2018-10-04
Roman#113
[pixiv]
東京事変『電気のない都市