「僕が博愛主義者で日和見で、そりゃあもう平和が好きだってことは知ってるでしょ、でも本当に見たい映画はヒッチコックとかそういうのなんです」
研究所の扉を閉める。光を照らせば壁には薬品が詰まった瓶が並んで、試薬を作っていた試験管とビーカーが実験台の上にたたずんでいた。
「あなたのたった一言だけを待っています」
「マスヤマ、黙ってそこに座っていろ」
榎木津は腕から血を滴らせた益田をよそに、目的の薬品を探していた。益田は壁にもたれて、ずるずると床に腰をつく。榎木津をぼんやり見ていた。かれの背中は大きくて、強いおとこを表している。
「榎木津さん、もういいんです」
顔色が悪い。益田の色が濁っていって、それがダメだということを教えていた。
「僕なんかどうでもいいでしょ」
「マスヤマ、黙っていろ」
「おねがいです」
益田は叫んで見せた。それを聞いて榎木津は振り返り、そこに座りこむおとこを見やる。
「ほんの僅かだけでいい、それだけの時間が欲しい、あなたの、時間を」
おおうおおうと遠くで何かが呻く声が聞こえる。部屋は二人の呼吸で満たされた。静かだった。榎木津は益田の傍に寄って、見つけた林檎の果実を投げつけた。
「食べろ。何も食べてないだろう」
益田は赤い実を拾って、小さく苦笑する。
「優しいんですね」
「僕はいつだって優しい」
「そうでした」
つやつやした好い色を、益田は榎木津に渡す。その手は震えていて、益田の事実を表している。
「もう何も食べられない、死にかけてるのがわかるでしょう、ただ、あなたが見たい」
「マスヤマ」
「あなたは光」
益田は神に祈るように両の手を合わせた。そうしてくちを覆う。
「あなたの欲しいものになれたら」
泣きそうなこえだった。きっとそれは告白だったのだろう。榎木津は静かにそれを聞いていた。
「肉体が死ぬより先に、こころがなくなっていくんですね。なんだか、もう、はかないです」
「しっかりしろ。薬があるはずなんだ。みつけてやるから」
「血清なんて、そんなものはこの世にないんです」
ドン、ドン、と扉をたたく鈍い音が始まった。それは紛れもない、死の音だった。
「さようなら」
益田は真っすぐ榎木津を見つめて云った。
「云っておきたくて」
困ったように笑って、ちいさくごめんなさい、と益田は謝る。
「オロカだな。今そんな挨拶はいらないだろ」
「云えなくなる前に、僕は云っておきたかったんです」
「しっかりしろ」
血走った眼は濁っていて、息がせいで行く。益田の感覚はそぎ落とされていって、既にもうろうとしていた。
「榎木津さん……」
「おい」
倒れそうになる益田を抱き留めて、榎木津は益田を覗き込んだ。
「しっかりしろ」
「だめ、です」
益田は榎木津を押しのけようとして、震える腕に力を込めた。触れてはいけない。何故なら自分は穢れた存在だから。
「感染す(うつ)る……」
「マスヤマ」
榎木津は益田の肩を確かに持って、虚ろな双眸を射抜いた。
「僕を見て触れて知覚して感じて忘れて呼吸しろ」
「……」
「僕がいる限りお前は大丈夫なんだ。何故なら僕だから。僕がお前の傍にいることを望んだんだ」
「そんな、だめ、です、榎木津さん、まで、狂う」
もうその瞳には光がなかった。
「狂っているのか、なあ」
部屋が暗く、よどんでいく。色褪せた写真のように息をしない。
益田は顔を上げて、静謐と狂気の境を顔に映していた。
「僕をころしてください。あなたは正しいんだから」
益田は笑って見せた。笑い方が下手だった。
「これしかないでしょう」
壁にもたれて、益田は肩で息をする。生きることが難しいように、その呼吸は不規則だった。
「いつもみたいに蹴り飛ばしてください。そうすれば終わりです。おねがいします」
時計が時を刻む。数字が積み重なっていく。扉の向こう側に積み重なるのは死肉で、それが蠢いている。
「榎木津さん」
何も云わないかみさまに向かって、表情をなくして下僕はつぶやく。
「望みがかなって、僕はきっと成仏できます。しねたら、の話ですけど……」
「だめだ」
「云わなかったけど僕は、あなたと一緒にいることを望んでいたんです。もっとこう、親密に、なりたかった」
「死なせない」
「本当に、死んでいくんですね……」
「血清を打てば」
榎木津は薬品の瓶を次々に取り出した。この研究所のどこかにそれはあるはずだった。その為に、益田をここまで連れてきた。
「そんなの本当に、存在しないんですよ」
「黙っていろ、マスヤマ」
「あなたは何でも手に入れてきたけれど……」
益田はかぶりを付けながら、起き上がって見せた。それは死人特有の動きをして、ゆらゆらと目的へ近づく。
「もうお別れです」
土気色になった肌が濁っている。手を伸ばした。そこに意思があるのかわからない。おおうおおうと遠くでこえがきこえる。死のこえだ。
そこに死が、開花した。
「ぼく、あなたをかんじたい、もう、せかいがくるっているから、だから」
益田は泣いていた。まるで人間のように冷たい涙を流していた。
「だめ、ふれないで」
一歩ずつ近づくからだを、制御できないこえは俯瞰している。
「せかいがくらい」
蛍光灯の真下を歩くのに、その瞳には光が届かないようだ。
「ぼくを、ころして」
繰り返される懇願を、榎木津はただ聞いていた。
「あなたはただしい」
榎木津に体が近づく。
「ためらわないで」
あともう一歩で触れられる。
「くだらないぼくだったけれど、わすれないでいてくれたら、ぼくは」
益田だったものを、榎木津は抱き留めて見せた。まるでそれは聖母が我が子の死を悼むようにやさしい。死にまみれた牙が、ただ生きている生命を引き裂こうと翳される。榎木津は微笑んで見せた。それを赦すかのようなやさしいかおだった。
「僕はお前が好きだから、お前を過去にしない」
後ろ手に光る、注射器の針が牙よりも先に、きっと救われる者へ与えられる。
過去は続いていく。